4Apr

日本バストーナメントの黎明期に活躍し、アメリカ挑戦の先駆者ともなった寺島伸幸氏。
その突然の訃報は、かつてのライバルであり、クラシックにも出場した築山滋氏にも衝撃でした。
寄せられた追悼メッセージに、寺島氏の人柄と日本バスシーンの夜明けに思いを馳せて頂ければ幸いです。
(以下、築山滋氏からのメッセージ)
春先の川面には靄が立ち込め、朝霧の中その年のバスオブジャパンの初戦「SMITH CUP 」北利根川の朝はスタートした
1992年3月29日 もう、34年前になる。
あの日から随分歳をとってしまったが、今でもあの試合だけは忘れない
いつか、あの日の話をサシで語り合いたかったライバルが今春急逝した
アメリカでのバスフィッシングに夢を託し
日本からでは叶えらなかったB.A.S.S.の公式トーナメントで勝利する日を願って渡米して数十年
1991年、ジャパンフェデレーションからAOYを獲得した選手がアマチュアクラブの代表選手として初めて「ネイションチャンピオンシップ」へチャレンジがスタートした。
ジャパンフェデレーションからの代表はトーキョーバスマスターズ所属の「寺島伸幸」ニックネームはテラシー
その当時はバスオブジャパンのイースタンディビジョンにはトーキョー・イースタン・オターズ・スーパー・ショーナンの五つのクラブチームがあって、それ以前にはヨコハマというクラブも存在し日本のバスフィッシングの黎明期に、アメリカの[B.A.S.S.]との認可を得てその時代では最先端を行くトーナメントを開催していた。
当時は手作り感の強いバスボート風のボートをメンバーが工夫し製作したり、シーニンフ・ミロクラフト・LOWEと言ったアルミボートが主力になってからはカートップで牛久沼・印旛沼・河口湖・山中湖・北利根川・桧原湖を、レンタルボート戦では、相模湖・神流湖・亀山ダム・芦ノ湖で統一ルールの下年5戦のトレールがあって、1986年には「BASS・AID」と言うイベントではTV番組「DO Sports」にてその様子が放映され まだバスフィッシングトーナメントに傾倒する前の私は激しく心を動かされた覚えがある
その後、新しく出来た日本初のプロ・バストーナメント団体とのトラブルが起こり
その当時の有名選手やスポンサー理由等で両団体を掛け持ちしていた選手が脱退することとなる。
私が入会したのはちょうどその時期で、尊敬するメンバーが多く新進気鋭さを感じてショーナンバスマスターズに入会する
バスオブジャパンで実績と実力を積み上げ、プロになろうとしていた。
多分、寺島選手は既に入会していた筈で
その頃は釣具メーカーの「トーカイ」(今のエイテック)に務めていたと思う
彼はバスオブジャパン創始者の故 高野上会長とクラブを同じくしトーキョーバスマスターズの若手であった。
Slider warm のチャーリーブリューワーを信奉し自らの武器としていた。
年間5戦の中では、エレキのみの一人乗り・5馬力のみ使用のレンタルボート戦・マイボートの持ち込み戦が有って、人造湖・自然湖・沼・河川等全て異なる条件下
得意な釣りや場所があっても、総合力がモノを言う
振り返れば その当時、各チームそれぞれに個性の強い選手が多々居て
強い選手は試合前の前週、前々週の週末には試合会場の水上で顔を必ず合わせた
島津靖雄・赤羽修弥・滝沢修一etc. かく言う寺島選手はその筆頭で
いつも朝一番から暗くなる迄練習に没頭していた、そして試合では結果を残す そんな強かな存在であった
バスオブジャパンでもアメリカに武者修行に行き、戻ってきてからパターンバッシングとかストラテジーを立てて結果を出すメンバーが居たし
その時代時代の新旧交代に栄枯盛衰があって、常に空気感を変える試合があったりもした
話をチャンピオンシップに戻そう
1990年代、アメリカといえばシェビーにレンジャーそんな時代でサバーバンに3シリーズが中心な時期
出場選手にはそれぞれボートが用意され、牽引する車も同じ数用意された
それが当たり前に思える時代であった。
当然、スポットロックもライブスコープも無く、GPS機器でさえGARMINのハンディGPS持参して無限に広いフィールドを暗中模索していた時代。
チラーハンドルにエレキオンリーで小規模レイク中心の釣りを展開していたジャパニーズが、現地に行って面食らうのはその規模感に圧倒されること、使い慣れないバスボートを操作すること、それ以上に意思を伝える英語でのコミュニケーションが儘ならないコト
要は試合に望む以前に、その舞台にさえ登れていなかった自分に気が付いたのだと思う。
現在のようにデジタル機器が当たり前にあって、SNSをはじめ世界各国の情報が簡単に入手できる時と違って、連絡は手紙かFAX、事前の準備も完璧に出来ないジレンマと抱える不足と不安。
使い慣れない高出力のバスボートを貸与されても、複雑な地形や水面下の危険にビビりながらの操船。
いざ釣りを始めても見慣れない風景やフロリダ種にスポッツ、スモールマウス、の性質やベイトの存在が頭の中を錯綜させ自信を持った釣りさえさせて貰えない・・・
ならば、現地に住むしかない
二度のチャンピオンシップでの苦渋に1994年にJapan Team としてメンバーを募りチャレンジしたモンタナ州でのチームトーナメント(この時のメンバーはチームキャプテンとして最年長者の佐藤充氏・今井健之・赤羽修弥・寺島伸幸・甲佐直幸・中山毅彦・松本敏明・そして私 築山滋の8名)での経験が彼の気持ちをアメリカに向けたのだと思った。
そして、日本を離れて憧れのアメリカへ
彼はアメリカで永住権を取得するべく、就業し居住地を決め日々の生活をする中でなかなか仕事をしながら、ボートを維持し試合に集中する難しさを感じていたようだ。
彼が渡米をしてからもジャパンネイションからは、毎年チャンピオンシップへの切符を手にし参戦するメンバーは送り出すものの鳴かず飛ばず
日本ではあれだけの結果を出すのに、何故かアメリカではからっきしだ、その上「日本人はバスボートをろくに操船できないのだから」などと言われる始末。
2003年に私が代表選手として参戦した際には、普通に操船するのを見て驚かれた程だ。
その上、初日からリミットメイクをしウェスタンディビジョンのトップになってザワつかれた位に
それだけ日本人は舐められていたのだと実感した。
そして「2007」年再度私が代表選手となり、アラバマ州ニーリーヘンリーレイクで好成績を収めバスマスタークラッシック出場権利を獲得した後
彼から、お祝いのメッセージと共に「もし良ければ、クラッシックのサポートをしましょうか?」との申し出があった
かつてのライバルであり、きっと負けたくない相手の私に助けの手を差し伸べてくれた
彼にとっては忸怩たる思いの中での進言だった筈で
かつて、同じフィールドでシノギを削りあったライバルが自分より先に「バスマスタークラッシック」の舞台への権利を掴んで
嬉しさよりも悔しさが混じった複雑な思いを持ったのは否めないと思う
皆が知らないテラシー
彼は温厚な面持ちと話し方、雰囲気から、きっと穏やかな方なんだろうなぁとイメージされる方が多いと思うが
実は死ぬほど頑固で妥協しない
そして超がつく「負けず嫌い」だ
そして、ようやく
あれから、時代は変わりアメリカの景気状況やクラッシックをはじめチャンピオンシップでのスポンサーボート制度が無くなり
自らのボートを使用して参戦しなければならない時代の今。アメリカ以外の国から参戦するには敷居が高くなっていた。
しかし、寺島伸幸の好意で彼の愛艇を貸して貰って参戦が叶っていた(トラブル発生時にはオフィシャルボートを借りる時も有るが)
昨シーズンからは奇しくもテラシーの様に夢を叶えるために渡米したKen.Dがテキサスボートワールドの宮崎友輔氏、そしてSDG MARINの協賛を得て
代表選手へのボートサポートに尽力してくれて、渡米した選手の力添えとなったのはビッグニュースであった。
テネシー州の代表になって
ここ数年、彼の努力が実を結び
仕事や日常に追われず、テネシー州のフェデレーションメンバーとなり日本の時と同様に代表選手となって彼が表舞台に帰って来た。
時代はデジタルが発展し、FFS論争を筆頭にバスフィッシングとトーナメントが変わって行った。
彼は、「僕にはFFSは合わないオールドスタイルが性に合う」と昨年のチャンピオンシップ時に鈴木克昌会長に言っていたそうだ。
日本ではスライダーワームの使い手、ライトリガーのイメージが強かった彼だが、日本で過ごした時間より長くなった、アメリカ時間が彼をアメリカンスタイルのアングラーに変貌をさせていた。
先日、H.M.K.L.の泉和摩氏と一献傾けた時 「アメリカの寺島さんにハンクルクランクを使ってもらっているんですよ〜」「 フフフフッ」と言われ
これからが楽しみな展開があるのかな?なんて話したばかりで
ダイナモバズもテラシーのお気に入りで、勿体無くて普段は使えないなんて逸話も聞いたばかりだったのに
実は、私のバストーナメントは2007年のバスマスタークラッシックで一度終わっている。
それは多分、「Dreams come true」
そう、夢を叶えて全うしたから
それ以降、その時に応援してくれた仲間やクラブ そしていつかテラシーに恩返しをしなきゃなぁという思いが
今の自分のモチベーション。
人は一人では生きては行けず、人の応援は見えない支えになる
なぁ、テラシー
アメリカでの数十年、日本での暮らし易さや、安定の日本のバスフィッシングを捨ててまで行った事に後悔は無いかい?
1992年の北利根川戦
あの時、テラシーと私のベストゲームを覚えている?
得意のスライダーワームで5500gを超えたウェイトを叩き出した君に周囲は驚愕し、私も驚いた
だけど、そのウェイトを凌いだのは私だったよね
6130g
あの日の事だけは、何故か今でも忘れられないし
今年の春は特に斬新に思い出す
君から受けた恩を返せないままの終わりは、消化不良すぎて
負けず嫌いの君に、あの時の事思い出させる意味で嫌な事を敢えて懐古する
そしていつか、私が三途の川を渡って再会した時にはまた釣りをしましょう
私はあと少し、後進がアメリカで結果を出すのを見届ける手伝いに勤しみますから
ありがとう
合掌
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